1955年3800gの大きさで、その当時の父の赴任地の福島県福島市の病院で誕生。
目は細く、顎はなく、髪の毛も薄くで生まれた私のことを、9歳年上の兄は今でも「本当に不細工だった」と言い、夫は私の写真を見てはいつも笑います。そんな不細工でも、9年ぶりに生まれたそれも女の子。父はかわいいと思ってくれたのでしょう。眞理子の眞は父の名前の一字です。思い入れがあったのでしょうか。
私が4歳の時、父方の祖父が亡くなりました。父は長男でしたので跡継ぎの話になった時、母が家業の旅館を継ぐことになり、当時の赴任先の東京に父と兄は残り、母と私は福島県石川町でという生活になりました。父とは、父が退職するまでの14年間、お正月とお盆にしか会うことはなかったです。父が私に対して怒ったことがなかったのは、かわいかったからかそれとも遠慮からだったのか…もっといろいろ話をしておけばよかったなぁと後悔してます。
父はそばにはおりませんでしたが、周りには親戚も多く、また人の出入りも多かったので、賑やかな活動的な毎日を送ってました。私は感情の起伏が激しかったのでお客様にもそのような態度を取った時、母から「ウチは客商売なのだからいつも笑顔でいなさい」ときつく叱られたことがありました。それから私は笑顔を絶やさないことを心がけるようになりました。
学生時代の私は、洋服が大好きで明日は何を着て行こうかと毎日鏡に向かって一人ファッションショーをしていました。
洋服好きになったのは、母が洋裁学校を出ていたので、忙しい中でも私のために洋服を作って着せてくれていたことが大きかったと思います。
そんなに好きな洋服を雑に扱っていたなぁ~と今になって思います。フャッションショーの後の洋服をベットの上にドサ、床にバサと置きっぱなし。泥部屋でした。片付けには程遠い生活をしてました。
短大を卒業してすぐに自宅と他2か所でピアノ教室を開講して、それから15年間音楽教室等でピアノ講師として指導を続けました。23歳で結婚。その当時の夫の赴任先の千葉県船橋に引っ越し。それから14回の引っ越しを経験。もともと小さい時から掃除や片付けは苦手でも部屋の間取り図を見ることや模様替えが大好きでしたので、次はどんな部屋に住めるだろうと、引っ越しは苦ではありませんでしたが、知らず知らずに溜まる物の段ボール詰めには悲鳴を上げてました。
引っ越しは時間との勝負です。その頃はらくらくパックのようなサービスはなかったので、全て自分達で詰めなくてはなりませんでした。いかにササーと出来るかと思った時、やはり物は少ない方が良いしシンプルライフの生活が一番だと気づき、それから片付けに目覚めたのです。
自宅に遊びに来てくださる方々に「いつもスッキリ片付いていて居心地が良い」と言われるようにもなってました。
引っ越しで物との向き合い方を経験し大事さを知っていた私は、夫がリタイアをして落ち着いた時、片付けの仕事がしたいと整理収納アドバイザーの資格を取得して、整理収納の仕事を始めました。63歳の時です。仕事をしていく中で、片付けたくても片付けられない整理・時間のかかる整理・寄り添っての整理等、片付けにもいろいろあることに気づき、その気づきの一つが生前整理との出会いでした。初めて生前整理の講座を受講した時、過去を振り返り、現在を見つめ直し、未来をプランニングをする時間で不思議なことに自分の心が穏やかになっていくのを感じました。
もっと生前整理のことを知りたいと思い、進級を重ね、物・心・情報の整理をすることによって心豊かな人生を送れるという、生前整理の大切さと素晴らしさをお伝えする、生前整理アドバイザー認定指導員になることも出来ました。
生前整理講座を受講したことで、いつも母に「たった二人きりの兄妹なのになぜいつも喧嘩ばかりしているの…」と心痛めさせていた兄とも歩み寄ることができ、今は同じ敷地内で暮らしてます。
母が96歳の時、最期まで自宅で過ごして逝きたいという母の希望を叶えるために、仕事の忙しい兄たちに変わって一緒に暮らすことを決め、在宅介護を始めました。母はその時、福島の実家で自分の周りの物の生前整理を見事にやり遂げました。実家の自室の半分にも満たない大きさにも関わらず、お気に入りの物だけに囲まれた自分の部屋を見まわしては「私、この部屋気に入っているの~」と最期まで言ってくれてました。母自身が生前整理をして物に縛られなくなったからだと思います。
また、私は母の在宅介護を始めようと決心した時に、自分中心の介護をしようと決めました。介護は辛い、介護によって自分時間が無くなった等の話をよく聞いてましたので、自分を殺して介護をすることはかえってストレになり上手くいかないだろうと考えたからです、
母の一日のタイムスケジュールに私のスケジュールを合わせて自分時間を確保。私が留守をしても訪問医療の方々がスムーズに行動できるような片付けをし、また、車椅子でも移動できるような家具の配置等も考えました。転倒防止の工夫も母のためだけではなく、転倒して寝たきりになって介護の負担が増えたりしないための先を見据えてのことです。
在宅介護のための片付けを徹底的にしたことで、母も居心地の良い生活が送れたのではないかと思ってます。
「家族皆仲良くね」の言葉を残して、100歳で旅立った母との4年間は本当に貴重な体験でした。在宅での介護をするということはどのようなことなのかを、ケアマネージャーさんや在宅医療従事者の方々から学び、自宅で最期の看取りをするということも経験でき、葬儀屋さんとの事前打ち合わせ通りに葬儀も執り行うことができました。これらの体験全ては、母からの最期のプレゼントだと思ってます。
介護をしながらいつも考えていたことがありました。
それは、今はいつ何が起こるか分からない世の中。地震、水害等が頻繁に起こってます。日本は災害大国ということを思い知らされる日々…そんなもしもの時、母と一緒に避難することは出来るのだろうかと不安になってました。
そのために在宅避難を考えた時の安心安全な住まいを作る防災を学びました。それにより心の安定を得ることが出来ました。
今は福島に住んでおりますが、生まれ故郷は町の真ん中に川がY字に流れ、上流にはダムも抱えているうえに町全体がすり鉢状の盆地で避難するところがない…という地形です。
なにかの時は早めに避難を考えなくてはとは思ってますが、先ずは在宅避難を頭に置いての毎日笑顔で心穏やかな生活をおくってます。
趣味は30年続けている「声楽」歌うことです。歌曲やオペラアリアを学んでいます。60歳の時に還暦記念としてソロコンサートを開催しました。55歳の時に「還暦の時に記念としてコンサートをやりたい!」と、声楽の先生に宣言しました。宣言をしたことによって夢は叶ったのだと思います。
たった一度の人生。やり残しは悔いとなって残ります。悔いの少ない人生を送れるよう毎日を大切に過ごすよう心掛けてます。
座右の銘は「継続は力なり」
片付けサポートKOKUYAの「KOKUYA」は、父と母が守ってきた旅館「穀屋」を受け継ぎました。想いを繋ぐ屋号です。
自己紹介
生誕 | 1955年7月20日3800gで福島県福島市で生まれる 大きく生まれたので丸々太っていて、目は細く顎はなく「不細工」だったそうです |
4歳 | 東京から福島へ 旅館を経営していた父方の祖父が亡くなり、父と兄は父の仕事の関係で東京に残り、旅館を継ぐことになった母と私は福島県石川町で暮らすことになります |
18歳 | 父が退職をして福島へ 初めて家族が一緒に暮らすことになります |
20歳 | 短大を卒業し、自宅とその他2か所でピアノ教室を開講 その後15年間ピアノ講師として指導にあたる |
23歳 | 結婚 夫の勤務地の千葉県船橋市に引っ越し。そこから13回の引っ越しを経験 片付けの大切さを実感する。 |
63歳 | 整理収納アドバイザーの資格を取得し、片付けの仕事を始める |
63歳 | 生前整理アドバイザー・生前整理認定指導員の資格を取得して、生前整理の大切さをお伝えする講師となる |
65歳 | 片付けトータルサポート「KOKUYA」を起業 |
資格 |
心地よい空間作りアドバイザー 整理収納アドバイザー 生前整理アドバイザー 生前整理アドバイザー上級認定指導員 生前整理診断士 在宅介護インストラクター 看取りケアパートナー 認知症サポーター 生前相続アドバイザー 写真整理アドバイザー 防災共育管理士 ルームスタイリスト カラーセラピスト 講師経験一例 |
講師経験一例 |
よみうりカルチャーセンター様 ヨークカルチャー様 パルシステム千葉様 |